淡海古説(たんかいこせつ)という本に下之郷村のできごととして次のようなことが書かれています。 「佐々木氏の観音寺城がほろぼされたとき、奥方様をはじめ一族の女たち五十余人は「あひこ宝□寺」へかくまわれました。その後、最後の女までなくなられたので塚をつくってうめました。末代まで佐々木氏の最後の場所が見苦しいのは恥として、水の美しいここに塚をたてたのでした。 しかし、関ヶ原の乱で場所がわからなくなり、今は田になっていますが、村人たちはそこを「石塔地」とよんでいます。 いつしか後世の人たちは塚ができたいきさつも忘れ去り、墓石は橋や詰め石などに使われてしまいました。「宝□寺」がつぶされたとき、本尊の仏様は安土寺に移されました。」 今から数十年前、灌漑用水川のそうじをしているときに、石塔橋付近から宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの石造物がたくさん出てきたことがありました。しかし、それが何なのか判らないのでバンバに放置されたままになっていました。それを見かねた念称寺の住職、藤谷一海氏が境内に移し供養されたものが今も大切に保存されています。 「あひこ宝□寺」と書かれているのは、二階堂宝蓮院の後世の呼び名でしょうか?もしそうだとすれば、二階堂氏が没落してしまったあとは安孫子氏(六角氏の流れを組む)の管理下におかれていたのでしょうか。 出土した宝篋印塔は、専門家が調べたところ、鎌倉時代後半のものということです。とすれば、この石造物は二階堂宝蓮院のものと考えられるのではないでしょうか。
西応寺の境内には「番方記念碑」が立てられています。
「番方講」というのは、室町時代に生きた蓮如上人の時代 から始まったと言われています。
「講」というのは、親鸞聖人のころは、法然上人の命日に みんなが道場に集まってお経を唱え念仏に親しむ会のこと でした。めいめいがお金を出して行事をいとなみ、また聖人 に送りました。親鸞聖人が亡くなられてからは、大谷廟堂を 維持するための灯明料として上納されました。
「番方」というのは、蓮如上人の時代にあった制度です。上 人が大津の御坊から越前の国吉崎へ移られたとき、7年間、 大津の御坊の留守番をしたということが記録に書かれていま す。
講が最も活躍したのは、顕如上人の時代です。織田信長 が石山本願寺を十一年にわたって攻めた「石山合戦」では 番方講の人々が本願寺を守り続けました。
その番方講祈念碑が西応寺に建てられているということは 特筆されるべきことです。
祈念碑の碑文には、「西応寺の了覚は、石山合戦のとき、 顕如上人のよびかけにこたえて、衆を率いて信長軍に対抗 してがらをあげた」ということが書かれています。