⑮明治の大火

   明治8年4月30日、考えても見なかった事故が起こりました。

 この日の午後5時ごろ出火した火事はおりからの強風にあおられて、下之郷中を焼き尽くす未曾有の大災害となったのでした。
 この火事で焼失した家の数は、藤谷一海氏(念称寺先代住職)の記録によれば「火事といえば下之郷といわれるぐらい火事が多発した村で、この時206戸を焼失」とあります。この大火は県にも伝わり、滋賀県災害史には「132戸焼失」の記録が残っています。
 この火事は家を失った人はもちろんのこと、村の行政にも大きな打撃を与えました。村一番の大切な水帳(検地帳、田畑屋敷藪定納反別などを記録したもの)も焼失したとのことです。
 この火事に対して、近隣の村々からたくさんの見舞金が寄せられ、合計1469円にもなったとのことです。(当時米1俵3円ですから、現在の金額では約1070万円になります。)
 このときの様子について、次のような話が語り伝えられています。
 ─ある蒸し暑い夏の夜のことでした。桂城神社の神主(杉本安貞)は寝付かれず吟詠などして気を紛らしておりました。ふと何かの気配を感じて拝殿の方に目をやりますと、火の玉のようなものが拝殿のまわりを飛んでいるのが見えました。不思議に思った神主は、エヘンとせきばらいをすると火の玉は消えてしまいました。次の日もまた火の玉のようなものが飛ぶのが見えました。神主は、近所の人たちに「何か火の玉に心あたりはないか?」と尋ねてみましたが、誰も知らないとのことでした。
 そうこうしているうちに日が過ぎ、その年の暮れのある夜のこと、神主は夢を見ました。一人の女性が現れ、「私を助けてください。」と言うのです。思わず目がさめた神主は体中びっしょり汗をかいていました。その次の夜、またまた夢に昨夜と同じ女性が現れ「助けてください」と言います。「あなたはいったい誰ですか?」と神主が尋ねると、その女性は「私は、多賀豊後守の時代に生きていた『たけ』と申す者ですが、いまだ成仏できずにおります。どうか私を祀ってください。もし祀ってくださったなら、私は下之郷の守り神となりましょう。」と言って消えました。
 神主は、村人たちにこの夢の話をしましたが、誰も本気で相手にしませんでした。そして四月のとある風のきつい日のこと、村の一角から出火した火事は見る間に大火となり、村中を焼き尽くしてしまったのです。
 人々は、「おたけさんのたたり」と恐れ、さっそく五十告神社としておたけさんを祀り盛大にお祭りをすることになったのです。これが今に伝わる「おたけさんまつり」です。─
  このときの神主杉本安貞氏は、下之郷大火復興の恩人として、下之郷墓地の中に墓碑が建てられています。五十告神社は、もとは下之郷城の城跡と考えられる藪の中(辻啓一氏宅の南)にありました。ここは、下之郷城が陥落滅亡したときの犠牲者を祀った祠の跡と言われています。この祠は大変荒れていたので明治8年の大火のあと、桂城神社境内にうつし「おたけさん」として整備し祀られたものです。