⑭近代化への道
 

  
明治4年7月、廃藩置県となり、彦根藩は彦根県とされました。その後、長浜県、犬上県と変わり、明治5年9月に滋賀県となりました。

 政府は、明治5年11月、それまでの太陰暦を改め、太陽暦を採用することになりました。
 また、これを機会に時間の方も、「明け六ツ、暮れ六ツ」などという時間制から1日24時間制に改められました。
 廃藩置県で江戸に勤務していた武士たちはふるさと彦根にもどりましたが住むところがありませんでした。そこで彦根藩では、市が原(愛東)森野(多賀)と九条野に土地を与え、住まわせました。彼らは古物商、仕立物屋、日雇いなどで生計を立てていましたが、子孫はちりぢりになり、今では九条野には誰も住んでいません。
 また、明治4年戸籍法が公布され、区制度が新設されました。
尼子、在士、下之郷、四十九院、石畑、八目、八町、雨降野の八つの村を併せて、第十九区とされ、村の庄屋は「戸長」と呼ばれるようになりました。
 明治18年7月連合戸長制度ができます。
 ここでは、下之郷、尼子、在士の3つの村をあわせ、連合戸長役場が下之郷に設置されました。初代の連合戸長は在士の大鳥居彦三郎でした。
 明治22年4月になると、19区の下之郷、尼子、在士と、18区の小川原、20区の呉竹を併せて西甲良村が誕生します。その初代村長には大鳥居彦三郎が就任しました。
 このように、行政のしくみはめまぐるしく変わり、当時の人々の暮らしははずいぶん混乱したことだろうと想像されます。
 明治5年、犬上県庁は、県内の各村の戸長に対して次のような文書を送り、小学校の設置を命令しました。
「このようなありがたい世の中に生まれながら、遊びほうけて無知文盲のまま空しく月日を送ることをいましめ、各区ごとに小学校を建てなさい。
 当面は、大きな町あたりから建てなさい。おとなりの京都では、上京・下京ですでに64校が建てられています。このままいけば京都に大きく遅れをとることはまちがいない。」
と諭しています。
 説諭書を受け取った下之郷の戸長は、明治9年に小字二階堂に人民共立小学校「正心学校」を設立しました。生徒数は104人でした。