⑫明治ご一新
 

 明治元年(1868)、天皇が五ヶ条のご誓文を発布し、新しい時代が始まりました。

 明治2年には、早くも、井伊彦根藩主が各村の戸籍を作らせています。

 【高野街道をめぐる争い】

 明治3年には彦根藩主が藩知事として、葛城海道筋を視察されました。これは、ご一新による民衆の不安をやわらげ、管内のもめごとを解決するためにおこなわれたものと考えられます。

 葛城街道というのは、高野街道ともいい、井伊様が永源寺へ詣でるための道 で、今の甲良町役場のあたりから、八日市方面へぬける幅

二メートルほどの道でした。高野街道の掃除、道普請は街道筋の村々へ命じられていました。

 この高野街道をはさんで法養寺と下之郷の間ではいさかいがたえませんでした。上手の法養寺村は、大雨が降ると高野街道で水がせき

止められ、冠水してしまいます。それで、土手の立木を勝手に切ったために、こんどは、大水のときには水があふれて、通りにくくなっ

たり、下之郷の田んぼに水が流れ込んだりしました。

 このように水問題では、いつも上流の村に困らされていました。また、高野街道を境にして、年貢の割り当ても反あたり二斗も高かっ

たのです。

 彦根藩主の視察は、こうした長年のうっぷんを晴らす願ってもない機会と人々は高野街道をめぐるもめごとの解決を強く訴えました。

 けれど根本的な解決にはいたらなかったようです。

【苗字を義務化】

 明治政府は、それまで武士だけに許されていた苗字をつけることを一般の人々にも認めることにしました。明治8年2月には「必ず苗

字をつけるように」という布告もだしました。文字も書けない一般の人々は困って、お寺のおぼうさんや庄屋さんに頼んでつけてもらっ

たりしたといわれていますが、下之郷の場合は、それまで私的に使っていた苗字を届け出たようです。つまり、「上野」「松宮」「川並

」といった苗字は、江戸時代にも暮らしの中では使われていたということであり、それをきちんと戸籍に登録するようになったというこ

とです。


 【地租改正】

  明治六年、それまで年貢は、土地の収穫高を基準としていましたが、

これからは土地の値段の3%とする、というように改められました。

れまで村の連帯責任として納めさせられていた年貢米を個人の責任でお

金で納めるようになったのです。

 このように、明治維新による大改革は、私たち下之郷の村にも大きな変化をもたらすことになったのでした。