⑪織田・豊臣から徳川へ藤堂高虎
 

 戦国時代からあと、下之郷はどう変わっていったのでしょうか。

 信長の時代、下之郷のあたりは、信長に攻められたときに城が焼かれ、多数の犠牲者が出ました。秀吉の時代には刀狩り令が出され、それまで村に住んでいた武士は城下に集められ、一方検地帳に載せられた者は刀を取り上げられ百姓の身分にされました。武士と農民に分けられていったのです。

 大阪夏の陣の年、京都にいた藤堂高虎が義弟の下之郷の藤堂高儀
に「士官しないか」と使いを送りましたが、高儀は、「私はすでに武士の身分から離れて久しい。今更武士に戻れない。」と断ったということです。(下之郷藤堂氏系譜)このころ、下之郷城代家老の家は刀を捨て、百姓になっていたのです。

 

 大坂の陣の後、下之郷村は、井伊氏35万石の領地の中に入りました。慶長7年(1602年)の検地で下之郷の石高は、1910石6斗5升と決められました。この石高は明治の末までずっと年貢などの基準額として使われました。
                      
 慶長18年、幕府はキリシタンを禁制とし、下之郷においても毎年宗門改めを寺ごとに実施したということです。

 元禄8年(1695年)彦根の大洞弁財天を建立する際、領民に一人一文の寄進を求めています。この寄進帳によると、その当時下之郷の領民は男498人、女563人、社寺方13人だったということです。

         (彦根城)

  
 また、下之郷は、中山道の宿場町である高宮宿の助郷でした。助郷というのは、宿場に置かれていた専用の馬や人が不足したとき、足らない人や馬を出すように義務づけられた村のことです。

  江戸時代も中期の宝暦年間になると、農民の意識も高まり、年貢の減免を要求するほどに成長していきました。井伊藩主は、何とか農民の力を押さえようと、次のような命令を出しています。

「村での商売は、日用品以外の商いをしてはならない。生活が華美になるから。

 また、衣類は麻木綿、住まいは雨雪をしのげばよい程度の普請にしておくこと。婚礼は、たんす一、挟み箱一荷としなさい。婚礼の宴会はやめなさい。葬式も質素にしなさい。寺の普請や寄進は生活の差し障りにならない程度に。」などと細々した指示をしています。

 この時代、年貢の取り方は、彦根藩でははじめ四公六民でした。しかし、藩の財政がだんだん苦しくなり、やがて五公五民あるいはそれ以上にされていきました。

 しかし、江戸時代をとおしてみると、井伊藩は大藩であり、したがって飢饉も少なく、国替えもなく、比較的おだやかだったと考えられます。