⑪織田・豊臣から徳川へ藤堂高虎 | |
戦国時代からあと、下之郷はどう変わっていったのでしょうか。
信長の時代、下之郷のあたりは、信長に攻められたときに城が焼かれ、多数の犠牲者が出ました。秀吉の時代には刀狩り令が出され、それまで村に住んでいた武士は城下に集められ、一方検地帳に載せられた者は刀を取り上げられ百姓の身分にされました。武士と農民に分けられていったのです。
大阪夏の陣の年、京都にいた藤堂高虎が義弟の下之郷の藤堂高儀 元禄8年(1695年)彦根の大洞弁財天を建立する際、領民に一人一文の寄進を求めています。この寄進帳によると、その当時下之郷の領民は男498人、女563人、社寺方13人だったということです。
江戸時代も中期の宝暦年間になると、農民の意識も高まり、年貢の減免を要求するほどに成長していきました。井伊藩主は、何とか農民の力を押さえようと、次のような命令を出しています。 「村での商売は、日用品以外の商いをしてはならない。生活が華美になるから。 また、衣類は麻木綿、住まいは雨雪をしのげばよい程度の普請にしておくこと。婚礼は、たんす一、挟み箱一荷としなさい。婚礼の宴会はやめなさい。葬式も質素にしなさい。寺の普請や寄進は生活の差し障りにならない程度に。」などと細々した指示をしています。 この時代、年貢の取り方は、彦根藩でははじめ四公六民でした。しかし、藩の財政がだんだん苦しくなり、やがて五公五民あるいはそれ以上にされていきました。
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