⑩藤堂高虎
 

 戦国時代、犬上郡の藤堂村(今の在士)に藤堂氏という土豪がいました。領主、藤堂越後守忠高には男の子がいなかったので、多賀氏から「おとら」という娘を養女にもらいました。そして、川並源助虎高という男を婿養子にもらい跡を継がせたのです。

(多賀氏は、下之郷城主。多賀高忠は京都所司代にもなりましたが、その後没落していました。また、川並家は下之郷城主多賀氏の家老の家柄)

 

 虎高とおとらの間に生まれたのが藤堂高虎でした。

 下之郷藤堂家に伝わる「藤堂氏系譜」によると、次のように書かれています。

 『虎高の継いだ藤堂家も没落し、むすこの高虎は士官先を求めて諸国を流浪した。高虎は父の親元である川並家に一時寄宿し、川並家のあるじ高儀と義兄弟のちぎりを結び、川並家を自分の親元としてほしいと言った。それを受けた高儀は姓を藤堂に改めた』

藤堂高虎の生涯 

  高虎は、身の丈190センチという立派な体をしており、最初は地元の大名・浅井長政に仕えました。姉川の戦いで手柄を立てましたが、やがて浅井家は滅亡。その後、何人かの主君を変えた後、羽柴秀長の家臣となりました。そして秀長の元で、着実に戦功を上げ、紀伊国内で2万石を得ました。秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となり、朝鮮出兵にも加わりました。秀保の死後、秀吉に仕え、伊予宇和島7万石を与えられました。

 秀吉が亡くなると今度は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いで活躍し、そのほうびとして、戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得ました。

 その後、伊賀・伊勢国にうつった高虎は、本格的な都市計画を実施しました。城を中心に武士を住まわせ、町人たちを呼び集め、城下町をつくりあげていきました。それに、伊勢街道を城下市街を通るように変えました。のちに、「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ」といわれるほど、城下町として宿場町として大変なにぎわいをみせるほどに発展してゆきます。

 また、高虎は築城の名手として知られています。滋賀県の膳所城、江戸城伏見城、二条城などの修築を手がけたりもしています。家康の信任も篤く、家康の死に際しては枕元で奉仕し、日光廟の建設にも参加するなど、とても重く用いられていました。

 寛永7年(1630年)10月、75歳で亡くなるまで幕府においても活躍し、津の町の発展にも大きな役割を果たしました。