⑦多賀豊後守高忠

 下之郷に城が築かれたのは、室町時代の応永四年(1397年)のことです。社伝によると、「京極家の七代目高詮の次男、高員が父から多賀庄をゆずられ、下之郷に城をつくり、家老たちといっしょにやってきて住んだ」ということです。

 高員の孫が高忠で、高忠は、氏を「京極」から「多賀」に改めました。

 この多賀高忠は、弓や馬の使い方の達人として有名で、京都所司代も2回務めました。

 高忠は、所司代になった次の日には土一揆を鎮圧し、その首領を捕らえてしまうというほどの勇猛な武将でした。しかし、武将としての活躍以上に、すぐれた知恵者でもありました。

 こんなことがありました。

 町の質屋に道具を入質していた男が、品を受け出しにいったところ、ネズミが糸をかじってしまっていて使い物にならなくなっていました。困ってしまった男は、「せめて利息を少し負けてくれ」と質屋に交渉しましたが、質屋は応じません。そして、死んだネズミを一匹つきだして、「こいつが罪人だから、成敗してやった」などと言うのです。くやしくてならない男は、所司代に何とかしてほしいと訴えました。その訴えを聞いた所司代の高忠は、次のように裁きました。

「ネズミはたしかに盗人である。しかし、その盗人を家においていたということは、盗人を隠しておいたということだ。盗人隠匿の罪は重大である。家財一切没収せよ」と。

 この話を聞いた京の町の人々は、「所司代のかがみだ」と誉めたたえました。

 また、高忠は、若いころから古今の作法、儀礼典礼、行事、法令、軍陣などについて小笠原家から学び、その奥義を極めていました。今でも「小笠原流」とよばれているものです。

 さて、京都所司代として華々しい活躍をしていた高忠ですが、地元下之郷城主としては、どうだったのでしょうか。

 社伝には次のように書かれています。

 文明11年(1479年・高忠54歳)のとき、大干ばつがおこりました。人々は苦しみ、各地で雨乞いが行われましたが雨はふりませんでした。そのとき、高忠は、故実にのっとった荘厳な雨乞い神事を桂城神社に奉納しました。するとたちまち霊験あらわれて雨が降り、その年は大豊作になったということです。人々は大喜びし、桂城神社を今まで以上に崇拝するようになりました。高忠は、神の恩に報いるため、御輿の再建を命じました。残念ながら、それが実行されないまま高忠は戦死してしまいました。

 高忠は、京極家の重臣で、しかも応仁の乱では東軍の最高指令官でしたから、地元にいることより、京都あるいは戦場にいるときがほとんどでした。彼が死んだのも、多賀出雲との戦いの中でのことでした。 

 高忠が死んだあとの多賀家は没落し、永禄11年(1568年)、下之郷城は信長に攻め滅ぼされ、火炎の中に170年の歴史の幕を閉じたのでした。

 その時の戦没者の霊を城址にまつり、のちに五十告神社として崇敬している下之郷住民の心の底には三代目城主豊後守高忠に対する深い思いがあるのです。