⑥二階堂道薀と二階堂宝蓮院

二階堂道薀(どううん) 

 二階堂貞藤(出家して道薀となる)は、鎌倉時代の中頃の1267年に生まれました。2度目の蒙古襲来で衰退しつつあった鎌倉幕府を支えた武将の一人でした。幕府を代表して倒幕を画策する後醍醐天皇と折衝したり、重要な政策決定に常に参画していました。やがて鎌倉幕府が倒れ、建武の新政が始まったときも、本来なら殺されるはずの道薀は、その才能を惜しんで助けられました。しかし、紀州で反乱が起き、道薀は陰謀に組したとされて、捕らわれます。そして、領地の下之郷屋敷にしばらく蟄居(ちっきょ)させられ、京都六条川原で斬殺されました。67歳の生涯でした。

 

二階堂寶蓮院

  奈良の西大寺は、東大寺とならんで有名なお寺です。その西大寺に伝わる末寺帳に、西大寺近江八大寺の筆頭として二階堂寶蓮院の名前があります。そして、その次に佐々木慈恩寺があります。この二つの寺は、それぞれ二階堂氏、佐々木氏の菩提寺でした。両寺とも、織田信長が近江一帯を攻めたときに壊されてしまいました。信長は、慈恩寺の跡に浄厳院というお寺を建て、二階堂寶蓮院の本尊であった丈六(約5m)の阿弥陀如来(世に言う二階堂佛)をそこに移しました。このとき、その阿弥陀如来の代わりに護摩堂の不動尊を下之郷に迎えたということです。(下之郷文書)



 ところで、二階堂佛が安置されていた二階堂寶蓮院はいったい下之郷のどのあたり
にあったのでしょうか?一つの可能性は桂城神社の東側の畑のあたりです。ここは『寺側(てらご)』といい、その地名からこの側に寺があったのではないかと類推されます。もう一つの可能性は、名前の通り、小字『二階堂』のあたりです。おそらくこのいずれかにあったのでしょう。



   桂城神社の東側 小字名「寺側」