①村のはじまり
 「下之郷」という村が生まれたのは、いったいいつごろのことでしょうか?

それを知るため、まず、大昔の日本ののようすを見てみましょう。
 今から三千年ほど前、縄文時代の終わり頃、地球全体が寒くなり、温かい土地を求めて人々が移り住んだ時代がありました。 おとなりの中国では、北の方の人たちが南にうつろうとして大混乱になり、わざわいをさけようとした一部の人々が温かい日本へ移り住みました。そのとき、米作りを始め、いろんな新しい文化を伝えました。
  その後も、日本にはしばしば、中国や朝鮮から渡来人がやってきて、その人たちの力で邪馬台国、大和朝廷といった日本の国のもとが形づくられていきました。
 こうした中国や朝鮮からの渡来人がたくさんやってきて、もともと60万人ぐらいだった日本の人口が、奈良時代には600万人にもなっていました。日本人の多くは、実は渡来人だったと思われます。

 さて、縄文時代のこのあたりはどんなようすだったのでしょうか?
 土器と狩猟生活をしていた縄文時代の遺跡としては、金屋・小川原で発見されているだけです。
 米作りが中心になる弥生時代の遺跡はありません。水田を作るためには水が必要ですが、このあたりの土は砂や小石が多く、田に必要な水の管理をする技術がまだじゅうぶんでなかったせいでしょう。
 もう少しあとの古墳時代(四~七世紀)になると、下之郷のあたりにはたくさんのたて穴住居ができています。これは、犬上川の水を利用する技術が整い、この辺りを田んぼとして開発し始めたということです。これは犬上川左岸の地域の中では最も早いそうです。
 下之郷遺跡を発掘した昭和61年10月、毎日新聞によると、
「南北500m、東西300mの土地に約200のたてあな住居が規則的に並んだ7世紀中頃の集落地」であり、
「大化改新のあと、日本の国をまとめようとして作られた大津京とつながりの深い、計画的に作られた当時のニュータウン」だったと書かれています。
 8世紀に入ると、村はさらに東へ移動し、掘立柱建物もできてきます。この建物は、地方の豪族の建物と考えられます。
 やがて、8世紀中頃には、すべてが掘立柱建物になり、12世紀になると、ひさしのある建物が出現し、掘立柱建物はなくなります。そして村はさらに東にうつり、今の下之郷あたりに集落ができあがっていました。

 むかし、下之郷は「根田村(こんでんむら)」とよばれていました。それは、墾田(こんでん=荒れ地を開いて田にすること)が語源になっているのかもしれません。つまり、下之郷を中心とするこのあたり一帯は、古代の先進地であったのです。